詩人の茨木のり子さんが亡くなったと
報じていたテレビのチャンネル、
とちゅうで急にかえる人がいて、
ちゃんと見られなかったんだけど、
ほんとなのか?
あの方の詩を読むと、いつも背筋がしゃんと伸びる感じ。
背中ぼんこの背筋をのばし、居住まいを正さねばならない感じ。
とくに「倚りかからず」は、よりかかってばかりいる私には耳が痛い詩。
本棚の整理がとちゅうで、詩集がどこかに紛れて
いますぐに読めない(自分がだらしない)のが、いらだたしい。
急ぎ、ネット検索…
茨木のり子こちらの中ほどにある「自分の感受性くらい」は、
まさに自分に言われているような気がするのだ。
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自立した知性で見つめた戦後日本、茨木のり子さん死去
戦後の日本を鋭い批評精神と自立した知性で見つめてきた詩人の茨木のり子(いばらぎ・のりこ、本名・三浦のり子=みうら・のりこ)さんが19日、東京都西東京市内の自宅で亡くなっているのが見つかった。79歳だった。
大阪府生まれ。1953年、投稿仲間の川崎洋氏(故人)と同人誌「櫂(かい)」を創刊。のちに谷川俊太郎、大岡信、吉野弘氏らも加わった。主婦業と詩作を両立させ、「対話」「見えない配達夫」「自分の感受性くらい」などの詩集を発表した。
社会的な問題意識を持ちつつ、戦後女性の希望や感じ方を、歯切れのいいリズムとメッセージ性の強い言葉で詩にしてきた。99年に刊行した詩集「倚(よ)りかからず」は新聞コラムで紹介され話題を呼ぶなど、作品は詩壇にとどまらず、広く愛唱された。また、50歳でハングルを学び始め、12人の韓国詩人の作品を翻訳した「韓国現代詩選」で91年、読売文学賞を受賞している。
子供はなく、夫を亡くしてから一人暮らしだった。
親交のあった詩人の新川和江さんの話「戦後、社会的に目覚めてから詩作を始めた茨木さんは、戦前のしがらみを一切もたない『戦後現代詩の長女』。新しい感受性がまぶしかった。切れ味がよく、言葉を新鮮によみがえらせる、まれに見る日本語の使い手で、人前に出ることが苦手なシャイな面もあった。亡くなられたことは大きな衝撃です」
(2006年2月20日3時8分 読売新聞)