ネットの友人、COSMOSが、日記に書いていた
家の鍵。
私も、5月に岩波ホールで見て、
感想を書こうと思いつつ、書けずに終わったものでした。
見ていない人に伝えるのは難しいかな、と思いつつ、
見てない人にも伝わるように書くのは、なかなか難しそうで…。
COSMOSが書いていたので、勇気をもらって、書くね。
STORY:公式サイトから引用:
若き日、出産で恋人を失った衝撃から、生まれてきた我が子も手放してしまった父親ジャンニ。15年の空白を経て、障害を持った息子パオロと出会った彼は、パオロをミュンヘンからベルリンのリハビリ施設に送り届けることになった。
初めて息子と向き合い、戸惑いを隠せないジャンニ。明るく振舞ってはいるが、心に寂しさを湛えたパオロ。ぎこちない父と子の関係は、短い旅を共に過ごすなかで少しずつ変わってゆく。
ジャンニは施設で、重い障害を持つ娘を介護する女性ニコールと知り合った。
「子供たちにとって問題なのは、病気じゃなくて親よ」という彼女。
ジャンニのなかで、息子への思いが溢れるように込み上げてくる。そしてある日、ジャンニは決断するようにパオロを連れてノルウェイの旅に立つ—。
この映画を見て、COSMOSは
8月7日の日記でこう書いていた。
親は、子供を守り、庇護している
・・・・と思っているけれど
実は
子供の存在が親を支え
守り
子供がまず、
親を愛しているんじゃないだろうか。
常々そう思っていたけれど
今日の映画は
最初からそれが
実によくわかった。
これを読んで、同じ映画でも受け止め手によって感想が違うな、と思った。
(これはそうあって当然なんだけど…)
わたしが、一番に感じたのは、「丸ごと引き受けること」ということ。
良いところも、イヤなところも、
かわいいところも、憎らしいところも、
助けられるところも、迷惑なところも、
癒されるところも、困らされるところも、
障害のあるなし、すべて丸ごと、引き受ける…、
丸ごと認める、丸ごとかかえる、丸ごと抱きしめる…
そういう関係。
「愛」と言ってしまえば、薄べったくなるみたいで
手あかのついた「愛」という言葉は使いたくないけど。
責任をとる、というと角張ってしまって、また違う気がするけど。
引用した粗筋の中に出てくる、ニコールのせりふ
「子供たちにとって問題なのは、病気じゃなくて親よ」
これは、わたしの記憶では、少し違うのだ。
「子供にとって病気は問題ではないの。
子供は病気で守られているから。
問題は、親なの」
たしかこう言っていたはず。だから、ドキリとしたのだ。
親は何にも守られていない(から、真正面から障害と向きあわなければならない)。
これを言外に感じたのだ。間違った解釈かも知れないけど
そして、丸ごと引き受けること、の意味を、難しさ、重要さを思ったのだった。
ラストの方、旅の終わりに、父親は(実は再婚しているのだけれど)息子に言うの。
「うちにきて、一緒に住もう」と。
息子がもてあそんでいた「家の鍵」が生きてくる。
さらに大ラス、
家に向って車を運転する父親を、
助手席の息子が、無邪気に笑顔で邪魔をするの。
父親があぶないからと、止めても、止めても、
面白がって手を出してハンドルを持とうとし
車は、対向車線にはみ出したり、よろよろ蛇行して走る。
見ていてもはらはらするシーン。
この親子のこれからを象徴的に表しているように思えたのでした。
そして、それを、わたしは、モグちゃんの関係に引き寄せて見ていたのね。
モグちゃんは、軽く精神を病んでいて
この映画の息子のように重い障害をもっているのではないけれど、
いわゆる健常者のようには生活できていない、という意味で、
どうも、わたしは、共通点を見てしまう。