カテゴリ:草木への思い( 22 )

風が柔らかい。春と花。片隅の春。

春分も過ぎて、吹く風も温かく、柔なくなった気がする。
……と書こうと思っていたら、今日はまた寒さのぶり返し。冷たい雨。

いつも、今頃になると、狭い庭にも様々なものが芽吹いてきた。花咲いていた。
今年も、植木鉢の沈丁花が花開いてきた。挿し木で増やしたものだ。
だけど、もう白木蓮は咲かない。咲く木がない。
花桃も咲かない。咲く木がない。

ヒヤシンスもスノーフレークも咲かない。
ヒヤシンスは昨秋、球根を植えなかったし、
スノーフレークは2cm厚さの鉄板の下になった。

毎年、軒下に植えるチューリップも、
軒下には花壇の縁どりだった丸石を積み上げて、球根は植えなかった。

だけど……

掘り起こし残してた球根から、芽吹いてきたのだ。
チューリップは、多分マメみたいな小さな球根だったのだろう。
一枚の葉が玉石の間から生えてきていた。

だけど、日本水仙は立派だ。けなげだ。

一週間前にはこんなだった。
2cm厚さの鉄板の陰から芽吹いて、か弱そうな蕾をつけてた。
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それが、今日みたら、きれいに咲いてた。日本水仙、強いな。
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これから2期工事で、また重機が入る。踏みしだかれてしまうのか。
このまま庭の片隅に咲かせておきたい気もするし、
切り取って部屋で咲かせてあげたい気もする。


追記
アップしたブログを見直してて、今気がついた。
水仙の右側の、丸い棒杭みたいなのは、伐られた百日紅だった。
この木はもう芽吹かないかな。
鉄板の下じゃなくて脇だから、芽吹くかしら。

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by hidaneko | 2017-03-21 20:25 | 草木への思い | Trackback | Comments(0)

むし

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居間の絨毯の上に虫がいた。1.5cmほどのこげ茶色の虫だ。
どこから来たのだろう? たまにキャベツなどに青虫がいることがあるが
居間に生のキャベツを持ってきたことはない。

虫を見つける少し前に古新聞を整理してた。
寝間の縁側に置いておいた古新聞のビニール袋を持ってきて
前に読んでちょっと気になった記事を探していたんだ。

あ、その古新聞紙の中に、菜っ葉や仏花を包んでもらった新聞紙も入れていたと
いま、書きながら思い出した。
あの、こげ茶色の虫はどこかの畑から、菜っ葉か、花についてきて、
この家までたどりついたのか……

居間にいたら、タナ猫のおもちゃになるだろうから、
窓を開けて逃がしてやったけど、
冬枯れの、工事中の鉄板の敷かれた通路、
虫にとって隠れたりする安全な場所はあるのだろうか、とふと思った。


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by hidaneko | 2017-02-14 10:12 | 草木への思い | Trackback | Comments(0)

水仙@立春大吉

今日は立春。暦の上では春。
幸い、日差しが見える陽気。
先日の雪も溶けた。
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ふと見たら、
工事で掘り起こされ、投げ捨てられていた水仙に
蕾ができていた!
ちょっとピンボケだけど。
日本水仙のたくましさ。がんばれ!水仙!


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by hidaneko | 2017-02-04 09:43 | 草木への思い | Trackback | Comments(0)

薄い本

薄い本を作っている。
薄い本とは、ウィキペディアによると・・・
「同人誌」と呼ばれる自費刊行書籍の中でも、漫画・アニメーション・コンピューターゲームのいわゆる「オタク系(秋葉原系、秋葉系)」と通称される分野の二次創作作品は、概ねB5判程度の判型で、表紙を含め12~32ページ程度のものが多い。
ということだが、別に成人向けの二次創作ではない。
物理的に、薄いのである。さらに言うとB5サイズでもある。
まあ、たまたまこうなった、というだけのことだがww
さらに言うと、32ページは収まらなかったけど40ページだし。
私家本として、家内的手工業によって製作してるから
ま「薄い本」だな。
欠点は、家庭用インクジェットプリンターでプリントアウトしてるから水に弱い。
「お風呂場で読まないでください、と注意書きしたら?」とは、モグ。

「ひだまり・えんがわ」で書いていた「草木への思い」がある程度貯まったので
プリントアウトして、友達との飲み会に持って行ったのだ。「つづく」として。
そしたら、「全部書いたら、読ませて」と言われた。
で。最近、全部書いたのだ。
ブログにはアップしないのもあるがかなり加筆した。

さあ、これからが大変。どうやって冊子の形にしていくか。
悩みましたよ。楽しかった。
いや、仕事が忙しい時期だったけど、仕事に飽きた時に気分転換にぴったりだった。
ほんとは、A5判型にしたかった。
途中まで書いて、飲み会に持って行ったのが、A4を袋とじにした物だった。
この辺が、文章を読むのに、適当なサイズなのよね。
1行が長いと読みにくい。もちろん縦書きだ。

袋とじは、厚みが2倍になるから、できたらA5で両面印刷したかった。
だけど、うちにあるプリンターでは両面印刷できるのはB5からだった。
A4で3段組にするか、B5で2段組にするか・・・・
わたし、けっこう、見栄えを気にするタチだからね。
あれこれ試行錯誤して、決めたのがB5の2段組、両面印刷。

前に半分できたのを飲み会に持って行った時に、ぱらぱらと見て
「奥付がない!」と言った奴がいた。(図書館関係の人)。
「写真をいれて欲しいな」と言った人がいた。うーん、考えよう。

実際に文章を書き上げて、両面印刷をすると、
普通のコピー用紙では裏写りする。
両面印刷できる厚手のを買いに行ったけど、適当なのがなかった。
お店の人が紹介してくれたのは印画紙だったから。

裏に写っても見づらくないように、表と裏の行をそろえた。
これ、大変だったんだから。空白や行間を微妙に変えて試してみた。
納得のいく行数が割り出され、プリントアウトしたら、読めた。
いけるかな? と思った。

ほんとはね、お金を出せば、同人誌を少部数、作ってくれるところもある。
だけど、できるだけ、お金はかけたくない。
だって、些細な趣味だから。

写真を入れるのは無理だった。紙の厚さが違って冊子にまとめにくい。
そのかわり、表紙にだけ写真を入れることにした。

まずは、「奥付は?」「写真を」といった二人の飲み友達に渡そうと思う。
クリニックのT先生も「できたら読ませてください」と言っていた。
うーん、読まされる方は苦痛だろうな、
胸に収めておけないことを吐露しただけ。
構成とか、語り口とか、全然考えてないし、だらだら長いだけ。
推敲とかもしてないからね。

でも・・・・・吐き出したことで、冊子にまとめられるとわかったことで
こだわっていた、草木への思いも、なんとか、処理? 
ちがう、片付けられた? 納得のいく形に納められた?
ちょっと心の整理がついた、がぴったりくるかな。

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by hidaneko | 2017-01-18 22:36 | 草木への思い | Trackback | Comments(0)

幻肢? 幻枝?

事故や怪我で切断した手足が、もう存在しないのに、痛む感覚があるというのを聞いたことがある。
その、切断した部分を「幻肢」というそうだ。
 Wikipedia より:幻肢(げんし、英: phantom limb)は、事故や病気が原因で手や足を失ったり、生まれながらにして持たない患者が、存在しない手足が依然そこに存在するかのように感じること。幻影肢(げんえいし)ともいう。
幻肢をもつ患者はしばしばそれを意図的に動かすことができる。 逆にそれが動かせない場合、その幻の部位に非常に強い痛みを感じることがあり、それを 幻肢痛(げんしつう)という。

ないのに、ある気がする。
あるように行動しようとして、ハッと、もうないことに気づく。
樹木のことである。

暮れに、炭を煮た。
部屋に消臭のため置いておいた炭を、大掃除(じゃないね、中掃除)のときに、古鍋で煮たのだ。吸った臭気を吐き出させ、さらっぴんにしてまた使うために。
その煮た炭を、金網のカゴにいれ、水気を切るために庭木に吊るすつもりだった。以前は普通にそうしてたから。だけど、カゴを吊るすザクロの木は、もうないのだった。

暮れに、街で水仙が咲いているお宅を見かけた。
「あ、うちもの切って、お正月用の花に添えよう」と思って、「あ、うちの水仙はもうないんだった」と気がついた。

鳥の鳴き声がした。半分に切ったミカンをプラムの枝に刺して冬場の野鳥の餌にしよう…と手にとって、「あ、プラムの木はもうないんだ」と思った。

あるのが普通だった。だから、無くなっても、まだ意識が現実に追いつかないのだ。あるのが普通だった。眼に浮かぶのだ、ザクロのひこばえに冬の日があたっている様子が。

近所のお宅の庭で、冬枯れのモクレンの枝に小さな蕾がたくさんついて春の準備をしているのを見て、悲しくなる。うちのモクレンに春は来ないのだ。

うちの草木類、庭のどこを掘っても細い根を伸ばしていたように、植木鉢の底から逆に忍び込んでいたように、わたしの日常生活の中に根っこを張り巡らしていたようだ。

もうしばらく、草木についての思いを書こう。まだ書いてない木々がある。今抱えてる仕事にめどがついたら、書こう。

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by hidaneko | 2017-01-03 22:34 | 草木への思い | Trackback | Comments(0)

《月桂樹・ローリエ》草木への思い

 これも子供のころからある木だった。幹がまっすぐ伸び、上の方で丸くこんもりと葉を茂らせていた。

 子供のころは「ゲッケイジュ」として知っていても、ローリエとして料理に入れるということまで知っていたか分からない。この木の前には畳三枚分ほどの空き地があり、そこは小さかったわたしの遊び場でもあった。姉たちとのままごとも、ここにゴザをひいて遊んでいたし、ゴム跳びや縄跳びもここでしていた。ゴムの片方を幹にくくりつければ、二人だってゴム跳びができた。ひとりがもう片方を持ち、ひとりが跳ぶのだ。縄跳びも、片方を幹に結んで、二人でも大縄跳びの「おまわし」ができるのだった。

 夢中で遊んで、夕方、家に戻ると足を洗わされる。春先でまだ水が冷たい時、ブリキのバケツに、冬菜など菜っ葉を茹でた緑がかったお湯が取ってあると、冷えた足もぬくく、嬉しくなるのだ。


More:長くなったのでつづきはこちらから
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by hidaneko | 2016-12-31 23:20 | 草木への思い | Trackback | Comments(0)

過去日記:2016年12月21日(水曜日)クリニックで

今週は金曜日が祝日で休診なので、水曜にクリニックに行ってきた。
先生が「取り壊し、どうなってますか、はじまりましたか?」と。
(前から、そのことがわたしに重くのしかかっていると相談してたのだ)

「はい、樹木を切り倒して、小屋を撤去しました。
チェーンソウの音がたまらなくて、聞いていられなくて、
逃げ出したくなりました」と話したら
「大変でしたね~。感受性の強い人はなおさらそうでしょう」と先生。

なんでわかるの? と思った。
樹木を切られる痛み、夫や娘にはわからないと思う。
わたしが、このことで心を痛めていることは、思いも及ばないと思う。
だけど、この先生、なんでわかるの! と思った。
分かってもらえて、それが嬉しくて泣きそうになった。

「切られた樹木のことを書いているのです。
心の中の澱(オリ)というか、溜まっているものを出すように。
切られた樹木への鎮魂というか、供養というか、そんな意味も込めて…」
そう言ったら、「書いたらみせてください」っていわれた。

細長い通路のわきの、細長い庭というか、植え込み、
半分切られたけど、まだ半分のこっている。
それについても、おいおい、書いていきたいと思ってます。


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by hidaneko | 2016-12-23 20:15 | 草木への思い | Trackback | Comments(0)

薔薇・バラ(草木への思い)

うちにあったのは、赤のと、薄紫の、薔薇。
漢字のイメージじゃないね、大げさすぎる。ならばバラと書くべきか。でも違うなあ。じゃあ平仮名で、ばら? どれも違う気がする。音(オン)のみでの、ばら。
アリさんとふらりと入った園芸店で買ってきたものだ。

わたしは薔薇が苦手だ。アリさんが「バラを買おうよ」と提案したときも、うまく育てられる自信がなかったから買い渋った。アリさんは薔薇が好きだ。街中にある薔薇園へ一緒に見に行ったこともある。
わたしは、あこがれはするが、自分では育てられる自信がなかった。バラって、肥料や防虫が難しい希気がして怯んでしまうのだ。殺虫剤が苦手なのだ。

園芸店でアリさんが選んだのは、薄紫の。急かされて、わたしが選んだのは深紅の薔薇。
やはり、植えた場所が悪かったのか、手入れがうまくいかなかったのか、うまく育たず、薄紫のは立ち枯れた。深紅のは、塀の上に顔をだそうと、妙に伸びて、ばらばらと、手入れの行き届かない花をつけていた。

ちょっとすまないと思う。ちゃんと手入れできなくて、ごめんね。

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by hidaneko | 2016-12-17 22:09 | 草木への思い | Trackback | Comments(0)

無花果・いちぢく(草木への思い)

この木は運の強い木だ。
わたしが子供の頃から幾度か面倒なことになりながら生き延びてきた。

最初は無花果は2本あったのだ。わたしの子供の頃も、大人になって帰ってきて、子育てしている頃も。
そのうち、カミキリムシがついて、片方が枯れてしまった。カミキリムシは、多分ゴマダラカミキリ。この虫は木の幹に卵を産む。孵った幼虫は木を食べながら育つ。木に小さな穴が空いているからわかる。

この時期にノズルの細い殺虫スップレーを穴に差し込み駆除するといいのだが、なにしろ奴らはわたしの手の届く範囲にいるとは限らない。手の届かない高い幹にも穴をあけるので始末におえない。そのうち木に開いた穴からボロボロと小糠のような糞がこぼれだす。幹をかじるとき、根から栄養や水分を吸い上げる導管も噛み切るので、栄養が行かなくなり、その先の枝は枯れる。
片方の、柘榴より門よりに植えられていた無花果は、ゴマダラカミキリにやられて枯れてしまった。

だが一方の、物置小屋と自転車小屋の間に植えられていた無花果のほうは、生き残った。夜中など、いや日中でも静かなときは「キリキリ キリキリ…」とカミキリが木をかじる音がする。成虫は葉もかじる。葉にとまっている此奴をみつけると、母は頭と胴体を引きちぎって投げ捨てた。あるいは、葉からこぼれ落ちたカミキリを踏み潰していた。

この、物置小屋と自転車小屋の間に立っていた無花果は、程よい木陰をつくってくれていた。子供たちが小さかった頃は、下にビニールプールを置いて水浴びをしたり、ゴザをしいてままごとをしたりしていた。
秋に熟す果実は、やはりわたしが木に登り、物置小屋の屋根に移って実をもいだり、また木に戻り、次は自転車小屋の屋根に移って実をもいだり。この木も、わたしの手の届くように剪定していたから。
ぽっていりと実が大きくなり、薄紫に白い粉をふいて、おちょぼ口のように紅色の口をすこし開けた頃が一番美味しい。市場で売っている無花果はまだ青いものを売っていたりする。濃い赤紫になったのも美味しい。

もいだ実は、友達に配ったりした。木で熟した実は甘く、とろりとしていて好評だった。心待ちにしてくれている友もいた。竹製の浅いカゴに無花果の葉をしき、そこへ紫色の無花果を並べ、また葉をかぶせ、近所へのお届けものにもした。

まだ2本の無花果の木があったとき、よく、やんちゃ坊主が実を盗みにきた。門をくぐってこっそりと、実を取りに来るのだ。でも、その子たちは無花果の食べ方を知らない。熟したのを見分ける目もない。まだ未熟の果実を半分にちぎって、食べかけで地面にすててあったりする。
わたしの子供の友達が遊びにきたときには、母は「無花果は、ね。こうやって、付け根のほうからバナナの皮をむくように、皮をむいて食べるんだよ」と教えていた。

雨が降ると無花果はまだ未熟で青みが残っていても口を開ける。おちょぼ口ではなく、母言う所の「あっぱん口」を開ける。その開いた口に雨水が入るとそこから腐る。腐らないまでも酸っぱくなって味が落ちる。雨が降り、無花果が口を開けると、傷む前にすべて採る。生で食べてもおいしくないから、皮をむいて水で煮て砂糖を加え「いちぢく湯」にした。また皮をむいてジャムにした。

秋が深まり気温が下がると、実が熟すのも遅くなる。口をあけずに熟しながら青みの残っているものは、すこし早いかなと思うものもすべて採って、甘露煮にする。皮のまま、なり口だけ硬いから切り取り、丸ごと水を入れずに砂糖だけで、弱火でふつふつ煮るのだ。これはお正月のご馳走になる。

無花果の思い出はつきない。
ゴマダラカミキリのせいで、門に近いほうの無花果が枯れたとき、もう一方の無花果も枯れかけたのだ。幹は穴だらけになり、殺虫剤もおいつかず、立ち枯れになろうとした時、ひこばえが生えてきた。木の根元から、わき枝が生えてきたのだ。やがて、本体の幹は切ることになるのだが、ひこばえがぐんぐん育ち、立派な幹になった。

けれど、そのころからカラスの被害が多くなった。実が熟して、そろそろ食べごろかな、という前の日に、カラスがやってきて実を啄むのだ。ギャアギャアと鳴きながら、小屋のトタンの屋根をあるくカチャカチャという音が混じる。鳥よけにCDを吊るすといいとか、樹全体に網をかけるといいとか、いろいろ聞くけれど、そのころは、わたしは介護生活に入っていて、鳥に対抗する余力がなかった。たまにカラスの目がとどかなかった葉陰の実を採ってバーサンに食べさせるくらいのもの。

その無花果。母屋の裏の工事のため切り倒すしかない、と決めた今年の秋、たくさんの実をつけた。カラスもすこしは来たけれど、熟した実もたくさん採ることができた。お裾分けにお届けした旧知の友が「まあ、どうしたの?」というくらいに取れた。

柘榴といい、無花果といい、おのれの運命、切り倒される運命を予知したかのように、例年とは違った実のつけ方をしたのだった。

だが、無花果、わたしは諦めていない。
これだけ根性の強い樹だ。地上を切り倒されても、根が残れば、そこからまた、ひこばえのように芽を伸ばしてくれる気がする。一応、取り木をして鉢に植えたけれど……。


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by hidaneko | 2016-12-16 23:17 | 草木への思い | Trackback | Comments(0)

プラム・すもも(草木への思い)

春先、桜より少し遅れて、真っ白い花をたくさんつけた。
通路を通る人に、「桜ですか?」とよく聞かれた。
そんなとき「プラムなんですよ」と答えていた。
プラムもスモモも同じ種類だという。スモモを「李」と書くと、高校の頃にならった漢文を思い出す。
「桃李不言、下自成蹊・桃李もの言わざれども下自ら蹊を成す」

スモモには多くの種類があるとういう。うちにあったものの品種は知らない。母が植えたのだ。何年前のことだろう。まだ細い若木の頃から知っている気がする。
春先に白い花をつけたプラムは、梅の実の実る頃、緑から黄色へ色を変える。「大石」と名札がついて市場やスーパーで売られているものに似ている。でも買った「大石」はカリリと固くあまずっぱい。

うちの場合は、さらに少し熟し紅がさした頃が食べごろだ。低い枝の実は背のびして採り、高いところのは脚立を立てて、小籠を手にわたしが木に登る(というか、わたしが上りやすいように、果実に手が届くように剪定してるのだ)。柔らかく木で熟した果実を掌にのせ、そっとひねるとすぐに採れる。いくつも、いくつも、手の届く限り実を採る。
プラムは夫が好きだった。初物は仏壇にあげ「チン」と鐘を鳴らして、すぐに下げてきていただく。甘酸っぱいというより甘みの勝ったジューシーで爽やかな味だ。

木に元気があったころ、通路の上を覆うように枝葉が茂っていた。南側の隣家へも板塀を超えて枝が伸びていた。
市内に住む長姉が来た時、言われた。
「なに? 幽霊屋敷みたい。少しは切ったら」
切ってはいたのだ。徒長枝は実を取るときについでに切っていた。冬場には枝ぶりを見て、わたしの手の届くように剪定していた。この木は庭師さんの手入れする木ではなかったから。小枝は赤みを帯びてすべすべとして、切るのも、切った枝を束ねるのも苦にはならなかった。

ただ、この木は、アメリカシロヒトリがつきやすいのだ。初夏と秋口の年に二回が要注意。
通路を歩いていると、石畳に黒いツブツブが落ちていることがある。見上げると、枝に白い蜘蛛の巣のようなものが密集してる。中には5ミリから1センチほどの毛虫がうごめいている。このチャンスに退治すれば手間はかからないのだ。ハサミを手に脚立に上がって、蜘蛛の巣状のついてる枝を切り、ビニール袋に入れる。アメリカシロヒトリを落とさないようにするのがコツ。かわいそうだが袋の中に殺虫剤を噴霧する。

この時期を逃すと、というか、アメシロの発生に気がつかないでいると、2、3センチに育ち蜘蛛の巣状のものから這い出し、散らばっていく。糸を出して枝にぶら下がっていたりする。こうなると面倒だ。アメシロのついた枝は、旺盛な食欲で葉を食い荒らされ、坊主になる。いや、葉柄だけのこして、葉っぱの部分を食べるから、枝に葉柄がぶらぶらしていることになる。

Gサンは、わたしより通路を通る機会が多いのに、石畳の黒い糞には気がつかない。脚立に上るのも、木に登るのも好きじゃない。
「あんな木、切り倒してしまえ」という。
プラムは好きだと思っていたのだけれど、それを切れという。山の村の生まれだから、木に馴染んでいて樹木は好きだと思っていたのだけれど違っていた。手入れを面倒がるたちなのだろう。高いところが苦手で登りたくないのはわかるが、わたしが剪定して切り落とした枝葉を、自発的に集めて束ねることもしてくれない。頼めば「お前は命令ばかりする」と不機嫌になる。面倒だから、わたしが自分ですることになる。

一度、大きく剪定したことがあった。それからしばらくして、プラムの木は、半分枯れた。片側だけ枯れてしまったのだ。もう一方の幹から枝を伸ばしている部分には花が咲き、実もなったのだった。Gサンは、その実を美味そう人食べていたけれど。
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最後のプラム

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by hidaneko | 2016-12-12 21:14 | 草木への思い | Trackback | Comments(0)